天真寺大師 弘法大師 子安弘法大師 


 〔お大師さま〕は、天草各所にあって、弘法大師は知らないけれど、お大師さまは知っているというほど、天草の伝統文化となり、3月21日はお大師さまの日として、天草各地で地域を上げてのご接待があり参拝者で賑わっています。

 天草と言えば、キリシタンの島というイメージが強いのですが、実際にはキリシタン信仰よりもお大師さま信仰が盛んなことに驚かされます。

 天草で最も古いお寺は本渡の染岳観音院で、天慶4年(西暦941年)弘法大師の法孫妙覚法印によって建てられた真言宗の寺院です。

 また、文應元年(1260)大蔵太夫(播磨局)が来迎寺(亀川)が建立され、正和2年(1313)には信福寺(一町田):天台宗が建立されています。

延文3年(1358)には大権寺(棚底)が建立されているが宗派は不明。

文亀2年(1502) 益田の観音寺(浄土宗)建立

永正2年(1505)今田の薬師寺(浄土宗)建立

永禄9年(1566)志岐鎮経(しげつね)が天草にルイスアルメイダを招聘しました。

当時の天草には、〔天草五人衆〕と呼ばる豪族(志岐氏、大矢野氏、栖本氏、上津浦氏)がいましたが、五人ともキリシタンとなったため、天草の領民はほとんどはキリシタンとなりました。

その時、領主たちが昔からあった神社や仏閣をことごとく取り払い、跡地にキリスト教の教堂を建立し、多くの領民たちは洗礼してクリスチャンネームを持ちました。天草島原の乱で戦死したキリシタンの天草勢は1万3千余人でした。 

 天草島原一揆の後、天草は幕府直轄の天領となり、代官として鈴木重成公が赴任します。 鈴木重成公が天草に赴任した時期は、ちょうど四国八十八ヶ所霊場巡りが全国的に盛んになりはじめた頃で、1687年日本で最初に『四国遍路道指南』という、お遍路のガイドブックが真念によって書かれました。  

 その時代に、鈴木重成公は、天草を八十八ケ町村に分けて統治しています。 そして、キリシタンの教堂の代わりに、天草中に曹洞宗13ヶ寺、浄土宗7ヶ寺真言宗1ヶ寺の寺院と富岡飛龍宮と栖本諏訪神社の2社を建立して荒廃した人心の安定を図ります。

 不思議なことに、後から立てた曹洞宗と浄土宗の寺院には古くから祀られていた弘法大師が祀られて、3月21日になると、領民たちが寺院やお堂で、お大師さまをお祀りして参拝者にご接待をするようになりました。

  弘法大師信仰は天草全島に及び、寺の境内や地域の大師堂には八十八の石仏が祀(まつ)られ、家庭では天草土人形の弘法大師像が祀られるようになりました。
  元文3年(1738)~昭和30年代まで続いた天草土人形(本町)は、部屋飾りの人形だけでなく弘法大師像や鈴木重成像が作られ、寛永年間から大正末期の最盛期には一日馬車6台を出荷したといわれ、天草一円の家々の仏壇に弘法大師像が見られるのも頷けます。