弘法大師:空海

  

 空海の父は佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀氏の出と伝わる。空海は幼名を真魚(まお)といった。18歳で大学に入学し、遣唐使として船に乗り込む。31歳になるまで、どこにいたのかは定かでない。一説には阿波・土佐・伊予の山中で修行に明け暮れていたとされているが、『三教指帰(さんごうしいき)』を記した24歳からの7年間は、特に資料が残されていない空白の期間である。

延暦23年(804)、経緯は不明だが、長期留学生として、遣唐使に参加を許される。長安へ向かう一行の中には、後に生涯のライバルとなる最澄や、空海に並ぶ能書家である、三筆の一人・橘逸勢らもいた。

渡航中に嵐に遭い、4船のうち1艘は沈み、1艘は帰国。幸い、空海の乗った船と最澄の乗った船は、それぞれ唐の別々の場所に漂着した。

延暦24年(805)に、長安の西明寺に入り、同年、とうとう満を持して、青竜寺を訪ねる。代宗、徳宗、順宗の3代皇帝に仕えた「三朝の国師」恵果に会うためである。余命わずかな恵果から後嗣と目され、すぐに密教を伝授される。本来20年を予定していた留学期間を1年余りで切り上げ、多くの文献を収集しながら、空海は帰国の途に就いた。

帰国後、空海は太宰府に逗留していたが、3年後、京に入る。大同5年(810)に平城太上天皇の変(薬子の変)が起こり、世は乱れていた。空海は平和のために、密教による鎮護国家を目指す。

一方で、この時すでに最澄は、空海より一足先に帰国し、新仏教(天台宗)の指導者として地位を確立していたが、真言密教の正統な後継者である空海を尊重し、頻繁に交流をする。しかし、空海から真言密教最大の経典「理趣経」の借用を拒否された上、弟子が天台を捨て空海に帰したことから、二人の間には溝が生まれたという。  

空海はその後、高野山を開くことを朝廷に奏上し、許された。さらに弘仁14年(823)には、嵯峨天皇から東寺を下賜される。修行の寺としての高野と、教学のための東寺は、教団の発展に大いに貢献した。

高野山の開創事業の最中、政治力を期待され、山を下りて中務省へ着任する。ここでも空海は才能を発揮し、大僧都にまで登り詰めた。4年後、病を得て解任を願うが許されず、山に入る。  

空海は晩年多くの著書を残し、弟子にのちのことを託し、承和2年(835)3月21日の夜、入定した。